更新(アメリカ東部時間):2006年12月1日17時(日本時間は+14時間)
*ご意見は大藤恵子<kofuji@bates.edu> 宛お送り下さい。日本語可です。
*私が見た「セクシュアルマイノリティ」を含む映画の紹介
*「セクシュアルマイノリティ」に関する最近のアメリカを中心としたニュース
*レポート&エッセイ
「World AIDES Day (世界エイズデー)」 |
「ナショナル・カミングアウト・デー」 [2003年7月] |
アメリカレポート: ベイツ大学 ■ 概観 ベイツ大学はアメリカ最北東部にあるメイン州ルイストン市に、個人の自由と人権を信じる人々によって1855年に創立されたニューイングランドでは最初の男女共学校で、学生は宗教、人種、性別、国籍を問われなかった。そのためかフラタニティ(男子)やソロリティ(女子)といった学生の社交場がないのも特徴である。現在学生数約1700人、教授の数は約200人(うちアフリカ系約7%)の私立のリベラルアートカレッジである。2004年の全米リベラルアートカレッッジ総合ランクでは170校中22位であった。リベラルアートカレッジというのは、修士、博士のコースはなく、大学院に進む前に学生がいい一般教育を受けられることが期待される大学群である。大きな大学では大学院生が学士の授業を教えることがあるが、リベラルアートカレッジでは教授が教え、一クラスの学生数が少ないこともあり(ベイツでは学生と先生の比率は10対1)、学生は厳しい学習を要求される。そのため5科目取るときは助言の教授の承認が必要で、普通一学期4科目を取る。セミナー以外同じ年度の学生が集まることはなく、4年生でも低い百レベルの授業が取れ、その逆もあり得る。普通1科目は一週間に計3時間で13週間、科学や言語ではラボも余分にある。学生は教科書の読破、授業の議論やプロジェクトの準備、リサーチとリポート書き、試験、卒論などに追われる上に、クラブ活動やボランティア、自分たちのソーシャル・ライフも維持しなくてはならない。学内でアルバイトをする学生も多い。卒業後すぐというわけでもないが、ベイツでは三分の二が大学院に進む。 施設はコンサートホール、演劇舞台ホール、スケートリンク、プールを含めたジム、テニスコートがあり、グランドもいくつかある。コンピュータ室もいくつかあり、込んで困るとか、壊れて使えないということはない。図書館には58万冊以上の書籍、朝日新聞も含め色々な新聞、「Gay & Lesbian Issues in Education」などのジャーナル類、千以上のビデオ、DVDやマイクロフォームなど多量の文献、資料が備わっている。多くの建物、施設などは成功した卒業生の寄付によるものが多い。 学生は東部を中心に全米から集まる。外国人留学生も100人ぐらい含まれる。全額あるいは部分的奨学金(返還不要)を受けて来る学生が三分の一より少なめ、ローンを組んで来る学生が三分の一、全額払って来る学生が三分の一より多め。大学は名声を上げるために、いろいろな面で力を発揮できる学生に奨学金を与える。入学は本人の学力だけでなく、スポーツ、芸術、創造性、活動経験、リーダーシップ、ボランティアなどが考慮され、推薦状、面接も大切な要素である。SATテストという全国的な試験の点数は考慮に入れるが、高得点は必須ではない。一般的に学生は高三の時に、自分が入りたいと思っている大学を両親と共に訪問し、決定の参考にする。余談だが、ベイツは前NHK政治論説者、故平沢和重氏が留学卒業した大学でもあり、氏を記念して会議室の一つが平沢ラウンジと命名され、平沢財団を通し毎年一人の日本人留学生を受け入れている。 学生の中にはラーニング・ディスアビリティー(学習障害)と言われる学生も混じっているが、個人の権利を守るため、ディーン・オブ・スチューデントのオフイス(学生課)は知っていても、その情報は前もって教授に告げられることはない。ただし、問題に気付けば教授のほうから聞くことはできる。学生の障害は暗記に時間がかかるとか、テストの問題を読むより耳で聞く方がいいとか、多様にわたり、学生が教授に言わない場合は対処も困難である。 ■ システムにおけるジェンダー考察 ベイツでの男女学生の比率は約半々、少し女性の方が多い。ほとんど全員が寮(ビルだけでなく家もある)に住んでいる。寮はほとんど男女混合(階によって分けている寮もある)、喫煙、飲酒、パーティなどが許されない寮もある。ちなみに大学では全館禁煙なので、冬には喫煙者(非常に少ない)は零度以下の外でふるえながら喫煙している。車イス用の便宜はキャンパス中で考慮されている。同じニューイングランドのウェスリアン大学、ブラウン大学ではトランスジェンダーの学生をそのジェンダー・アイデンティティによって希望する部屋に入れるようにし始めた。トイレもユニセックスのトイレが作ってある。ベイツ大学はこれからだ。 ベイツの教授陣の割合は男性52%、女性48%である。理数系を例にあげると、生物学部では女性12人に男性6人、化学学部では女性7人に男性5人、数学学部では5人ずつである。こういった情況なので、学生、教授に限らず色々な長は女性が多い。学長は2002年度から女性。教授たちの要であるディーン・オブ・ファカルティ(教授長)や二人いる副教授長はこの15年間女性である。学生課の長、ディーン・オブ・スチューデントの一人も2年前まで女性だったが、その後4人全員男性になった。そのうち二人はアフリカ系である。大学にはアファーマティブ・アクション(AA、積極的差別撤廃措置)のオフイスもあり、その長は現在コロンビア人の女性だ。学部長、委員会の長も女性が多く、それは女性も男性も当然のこととして受け入れている。「男のメンツ」などというものは見られない。大体、学部長の職も名誉職というより、雑用係と認識している教授もいるほどである。 ベイツでは女性教授も男性と同等に発言、仕事ぶりを発揮するが、それでも、前任のハワード学長(男性)は一年に一度、私のような女性でありマイノリティでもある教授を集めて特に男性教授や男子学生などから差別や嫌がらせ、理不尽な甘えを受けることはないかとミーティングを設置して聞いてくれていた。彼自身の発案かどうかは定かでないが、男性の学長のこういった配慮は驚きであった。ちなみに彼は朝学生食堂に行って学生と一緒に朝食をとり、よく情報を得ていたらしい。私たち教授がどんな仕事をしているかもよく知っていた。最近は年度始めに新任の教授、スタッフを対象に嫌がらせやセクハラ問題のための研修会と、研修をする助言者のための研修会が行われている。これは合衆国及びメイン州の法律で実施を課せられているものだ。そういえば何年も前、スペイン語の教授が女子学生に触ったと言う理由で辞職したことがあった。それ以来、私も学生に触るのは気をつけている。 レイプ事件も二件記憶に新しい。二件とも女子学生が外部の男性に攻撃された。一昨年起こったレイプは夜人のいないトイレに行った女子学生が待ち受けていた男性にレイプされたもので、これは警察に報告され犯人は逮捕された。そのずっと前に起きた事件は、女子学生が安易に外部の男性を寮の自分の部屋に入れたということで、当時の女性ディーン・オブ・スチューデントが警察に訴えたいという学生を援助せず、逮捕には至らなかった。しかし新しい女性学長になってからこの女性ディーンは退職させられた。アメリカが日本と違う点は上が変わると「官僚」も変えられる可能性があり、それによって、対処の仕方が変わり得ることだ。 200人の教授のうち、ゲイ、レズビアンの教授は15人(7%)ぐらい含まれる。また私が知っているだけで3組のゲイ・カップルがいる。一組のアフリカ系の若いレズビアンカップルは子どもも一人育てている。一組のレズビアンカップルは一つのポジション(一年に合計5コースを教える)を二人で共有している(一人が二つか三つのコースを教える)が、保険などは個別に受けているようだ。遠距離結婚を避けるため夫婦で一つのポジションを共有する場合もある。ベイツでは、未婚のカップルも、ゲイ・カップルも、6ヶ月以上同居している、共同の銀行口座を持つ、などのドメスティック・パートナーの条件を満たせば、パートナーは医療、歯科、生命保険の受取人などの保障がもらえ、図書館やジムなどの施設が自由に使えるカードが支給され、パーティなどもカップルとして招待される。保険会社はドメスティック・パートナー用の簡素な申し込み用紙を用意しており、保証人が必要だがこれは大学の医療保険の事務係長などが簡単になれる。アメリカではドメスティック・パートナーの社会保障をする会社は2005年には500社に上ったが日本ではどうであろうか。(Advocate、2005年10月11日号、55〜60ページ) ■ジェンダー、セクシュアリティに関する活動やイベント ・女性&ジェンダー学部:「フェミニスト論と方式についてのセミナー」「セックス、愛、結婚」「セックスとセクシュアリティ」など、16コース。 そのほかにも「女性たちの旅:まだ深い水(イスラム教徒の女性たち)」「哲学とフェミニズム」(宗教・哲学部)「女性と男性と労働の経済学」(経済学部)、「ギリシア神話とジェンダーの心理学」(中世学部)、「化学における女性たち」(化学学部)など24のコースがオファーされている。上記と合わせると全体で80コースになる。 [2005年、11月「季刊セクシュアリティ」のために書いたエッセイのオリジナル] |
つぶやき 今日は終戦記念日。小泉総理が靖国神社に参拝というニュースも載っていました。去年広島を訪れたドイツ人の友人が、広島には「どうして戦争になったか」「日本の軍部が何をしたか」が何も展示されてない。そこがドイツと違う・・・と批判していました。どんな問題でもそうですが、まず「知らないと」何も自分の意見は出てこないし、人の言うままになってしまいます。「知らせること」は必要かつ大切なことだと思います。LGBTQのことも、やさしくはないけれども、訴えていかなくては、多くの人は何も考えていないので、何も変りません。部落問題も部落の人の「語り」を聞くことで多くの人が差別は間違っていると気が付きました。ハーベイ・ミルク(最初のゲイのサンフランシスコ市会議員)も「カミングアウトしよう」と演説しています。 (2006年8月15日) |
A君のカミングアウト 今回はA君のカミングアウトの話をしましょう。2000年の冬のある日、A君が私のオフィスを訪ねてきて、「お願いがある」と言うので、何か聞いてみたら「自分は今からアルバイトしなくてはいけない事情ができたから、先生の授業を時々休むかもしれない。でもちゃんと終わりたいから補講をしてもらえないか」というものでした。「どうして急にアルバイトしなくてはいけないの?」と私。A君はその時4年生で、学習の要求が厳しいベイツではほとんど考えられない3つの専攻(中国語、アジア学、政治学)をして卒業しようとしていました。そのためには3つの卒論を書かなくてはならず、余分な時間がないことはわかっていました。彼は語学の才能があって、母国語、英語、中国語、イタリア語、日本語(初級)など6〜7か国語ができました。 「いや、実はゲイであることが両親にわかって、お金がもらえないことになった」と彼。彼によると、父親は「卒業してからギリシアに戻って来ないなら、援助を切る」と言ったそうです。A君は“どうも息子の態度が変だと思った“母親の誘導質問にひっかかってカムアウトするはめになり、父親は母親を通して知ったそうです。A君は、ゲイであるためにどんな目に会うかわからない兵役が待っているギリシアに卒業後帰るつもりはなく、親の意見に従うことはできませんでした。母親は「自分の育てかたが悪かった」と泣き、父親は「事業の跡継ぎがなくなった」と嘆き、「帰って軍隊に入れば、同性愛が治る」と言ったらしく、A君が「これは親のせいではなく、治らない自然なことだ」と言っても聞いてもらえなかったそうです。それ以後父親とは電話でも話さず、それでも母親は時々電話してくると言っていました。A君には兄がいたのですが、この兄は親の言うことを聞かずしたい放題だったので、両親は「まじめでいい子」のA君を可愛がり、望みをかけていたので、余計ショックだったらしいです。そのことも彼は心配して、親にカムアウトできずにいたようでした。 それから彼は大学のカフェテリアの下働きをするようになり、私の授業を時々休むようになりましたが、補講もさぼっていました。その時彼は他の悩みも抱えていたようでした。というのは、ベイツ大学でA君には一歳年下の相手がいましたが、その相手はドラッグに溺れ度々問題を起こして、A君の手に負えない状態になっていました。(後年、性的マイノリティについて多くの本を読んだ時、特に彼らがドラッグの問題を起こさざるを得ない状況を知りました。そのことは、小中高時代にマイノリティを含めた性教育とジェンダーや人間関係、将来についての教育の大切さと意義を私に強く植え付けました。)その後A君はあきらめて彼氏と別れたようでした。 学期の終わり(2000年4月半ば)に私はA君にCの成績をあげました。努力をする学生にはいい成績をあげるので、私が学生にあげる成績としては悪い成績です。A君は私が「事情を理解してくれた」と思っていたのでこの成績にがっかりしました。しかし、教師の本命は学生の事情を理解し、勉強を続けられるように助けることであり、決して、補講を休み、勉強しない学生にいい成績をあげることではありません。(後でA君はこの時いろいろ学んで自分は成長したと言ってくれました。) A君は理解してくれましたが、このことは「受け入れる」ということのマイノリティとマジョリティの接点あるいはボーダー(境界)が、人によっては違うのだということが存在することを明らかにしてくれました。直接的、あるいは間接的にはマイノリティであることが原因だと思いますが、そのことだけを持ち出すと解決できない個人的な問題もあり、一人の人間として努力しなくては自分の豊かな人間性や才能を築くことはできないのではないか・・・ということ。そうすることで人に認めてもらうことは可能、容易なこと。このことは、TGのいつきさんが「子どもに、あるがままの自分でいいと言うのは、疑問だ。努力しなくてもいいということと誤解されるのではないか、そこには成長がなくなるのでは・・・?、子どもにはやっぱり具体的に言わなくては・・・」というようなことを言われたこと(2005年初夏京都で)と通じているところがあると思います。 A君はアメリカで仕事を探していて、その冬仕事が内定していましたが、その後断られたそうで、彼自身は「ゲイであることがわかったからではないか」と言っていました。私は例年のごとく、ベイツ大学で冬学期が終わる時点(4月下旬)で日本に一時帰国することにしていましたので、友人がいることはわかっていましたが、A君の卒業式(5月末)が孤独なものにならないかとても心配していました。ベイツの卒業式は親、親戚、友人が多数参加しとてもにぎやかになります。A君の両親が来ないのではないかと心配だった私は、仲良しの同僚に「親代わり」を頼もうかと思ったぐらいでした。でも結局何もすることはなく気にしながら一時帰国、6月初めアメリカに帰ってきました。 するとすぐその後のベイツ同窓会の週末、A君が同じ私の授業をとっていた仲良しのロジャーという台湾人の学生と一緒に大学に来て、私の家を訪ねてくれました。そして卒業式に両親が来てくれたこと、ボストンで仕事が見つかり働き始めたことを報告してくれました。私は本当にホッとしました。 去年(2005年)10月のナショナル・カミングアウト・デーに、ベイツで私もよく知っているセラというレズビアンの生徒が「カミングアウト・ストーリー」という冊子を編纂しました。私はそれに「Aの想い出」というエッセイを書いて提出したのですが、あろうことかその次の日に、アレックスが突然私のオフィスをノックしました。夕方だったのですが、私は帰らずにオフィスにいたことを感謝しました。アレックスは今Mという会社のロンドン支局に勤めているそうで、作家であるパートナーもいて幸せな生活を送っているというので、感極まって思わず涙がポロポロこぼれました。私がベイツのアウトフロントというゲイ・サポート・グループにも顔を出したり、性的マイノリティのことを学習、研究したりしていることを話し、彼がいた時今知っていることを知っていればもっと何かできたかもしれない・・・と言うと、彼は今幸せだということ、ベイツにいる時いろいろ経験して自分は大人になったと繰り返しました。 両親との関係を聞くと、母親はたまにロンドンに来て一緒にご飯を食べるそうで、パートナーにも会ってくれたけど、会話ははずまなかったようで、父親とはあまり話していないようでした。ゲイのことは話題に上らないそうです。私は「最近はいい映画もたくさんあるから、ご両親がそういうのを見てくれるといいね」と言いました。(しかしギリシアでは、例えば「アレクサンダー」はバイセクシュアルを扱っているので上映禁止になったという現実があります。)そして別れたのですが、その後クリスマスカード(新年のカード)が届きました。 現実には、私はアレックスの話を聞いて激励してあげることぐらいしかできなかったのですが、彼にとってはそれだけでもよかったのかもしれないと思うこのごろです。知識があれば、対応ももっとよくできるかもしれませんが、親や周りがまず必要なことは「理解すること」ではなく、「あるがままを受け入れる」ことですから。アレックスは将来日本や中国に仕事で行くことがあるかもしれないと言っていましたので、今度は東京、香港、上海、あるいは台北から連絡があるかも・・・と時々想像しています。 (2006年6月27日、7月28日変更 LGBTの家族と友人をつなぐ会のための記事) |
ひとりの人間としてどう生きるか
私はアメリカのメイン州にある、東北部で最初の男女共学校として1855年に創立されたベイツ大学というリベラルアーツカレッジで15年間教えています。アメリカには1982年から住んでいて、ゲイの男性にも何人か会ったことがあり(そうです、知り合った人から「自分はゲイだ」と簡単に?言われたのです)、大学では同僚にもゲイ、レズビアンの個人やカップル(教員200人のうち私が知っているだけでも15人ぐらい、カップルは3組ぐらい)がいるのです。しかし、私は何年か前までは、例えば「ホモフォビア」という言葉を聞いても意味がわかっていませんでした。これは自分自身の頭の中では性的マイノリティを意識していなかったからで、自分の生徒の中にゲイがいるとは考えたこともありませんでした。自分では知的障害の弟のこと、部落差別と同和教育の経験から、同性愛差別をしているとは思っていませんでした。(同和学習のとき、何もしないことは差別を助長することにつながると何度か聞いたにもかかわらずです。)そんな私が意識をし始めたのは、ケビンという日系の教育学部の同僚との縁と、自分の学生(ギリシア人の留学生)にゲイであることをカムアウトされてからです。 ケビンは2000〜2001年度だと思うのですが、学内で三度ゲスト・スピーカーを招きました。トピックが「マイノリティの人権」だったので、全部聞きに行ったのですが、その三回目がナカタニさんという日系アメリカ人のカップルで、これも私が同性愛に対して意識を持つようになるきっかけになりました。 ナカタニさんには息子さんが三人いましたが、まず二男が20歳ぐらいで事件に巻き込まれ銃で射殺され、次に長男がエイズで亡くなり、その後三男もエイズで亡くなりました。長男がエイズで死ぬことを知ったとき、ナカタニさんは自分が息子たちに「男らしくあれ」「勇ましい日本男児」と教育したことが、長男が自分の性指向について親と話せず不幸な死(親と打ち解けずに亡くなった、親らしいことをしてやれなかったという意味)に至ったのだろうと後悔しました。長男の死と共に、三男のガイ Guy が性指向とエイズを明らかにしたため、ナカタニさん夫妻はガイには安らかな死を迎えてほしいとサポートしました。ガイにも親の気持ちがわかり、一緒に活動を始めました。健康が許す限り全米の高校をまわり「エイズについて」講演をしたのです。ガイの活動はビデオに収められ、ガイの死後は夫妻で講演をしています。(サイト参照) また、ガイのストーリーと家族友人の活動は本、”Honor Thy Children ”(Molly Fumia著)に収められ、出版されています。この本は涙なしには読めませんでした。特にガイが2人の男性にバーの倉庫かどこかで成り行きでセックスされる場面では、著者のモリーは「ガイ、これはレイプだよ、わからなかったの?」と会話しています。ゲイの大人の中にも子ども(小中高生)を食い物にする人(predator) はいるのですから、「安全なセックス」教育や「人間関係の構築」教育は、同性愛も含めてこうした子どもを食い物にする現実があることを子どもに話していくことが必要ではないかと感じました。また、それが犯罪であり、どんな結果があり得るか知れば、それは「食い者」になる予備軍を防ぐことにもなると思います。もちろん子どもと話すためには、両親も教師もまず自分が知識を得ることが必要なのは言うまでもありません。 その後、ケビンは他の仕事を見つけたのでベイツ大学を辞めたのですが、JGLIEという新しい教育雑誌の出版に関わっていたので、私にその翻訳の仕事を申し出てくれました。それから私はたくさん性的マイノリティ関係の英語、日本語の本を読んだり、映画を見たりするようになりました。尾辻さんなど日本の活動家と知り合いにもなれました。私は「変われないこと」に偏見を持ったり、機会を与えなかったり、差別をすることは間違っているし、社会をよくするには教育が大事と考えています。そして自分にできることを何か少しでもしていきたいと思っています。 最後に、私には知的障害の弟がいるのですが、ちょっとその話を聞いてください。彼は生まれてから5歳まで歩けず、その後遅れてすぐ近くの小学校に6年間通い、その後は児童施設、知的障害者の施設で生活しています。最近はそんなことはありませんが、私が日本にいるころは、一時帰宅して施設に帰る日が来ると、必ず腹痛を起こしました。私が子どもの頃は、母は病院巡りで留守のことも多く、また弟が成長するにしたがって私は「恥ずかしい」と思ったものでした。それでも村の同級生の中には遊ぶ時に弟を入れようとしてくれる女の子がいて、今はそのことを思い出して感謝しています。母は恥ずかしいと思うこともなく、先生と話し、参観日も運動会も遠足も弟と一緒に参加しました。人中にも連れて出ていました。そういう母を見ているので、私は隠すこともなかったし、大人になってからは恥ずかしいという気持ちもなくなったのですが、弟の話し相手になるのはとても大変です。12年前母が亡くなり、今は父が母の代わりをするようになりました。もちろん老年の父に行き届いた世話はできないし、母には劣りますが、弟の話し相手になれる忍耐力には脱帽です。父(母)は帰ってくれば弟の「好きな物」を食べさせるのですが、私は弟にとって「健康な物」を用意します。どちらも愛情からですが違いがあります。父は「娘に後を継がせて気楽な老後」を口にすることなく期待していましたが、私は独身で異国暮らし、弟は障害者なので、老齢の一人暮らしです。弟のために長生きしなくては・・とがんばっています。直接口には出さないけど、今は私の「苦労して開いた生き方」を誇りに思ってくれていると思います。そして私は反対しながらも結局は私のしたいようにさせてくれたことに感謝しています。そんな父が一度「おまえが男だったらいいのに」と言ったことがありました。これは日本の男性優位社会を如実に表していると思いました。結婚している妹がいますが、多分父は「跡継ぎ」はあまり期待していないでしょう。日本の家族の形態も大きく変ってきています。アメリカに住んで日本の家族との「あり方の違い」を強く感じますが、それはまた別の機会に話すことにしましょう。 人の悩みはそれぞれで、どれが重い、軽いと言うことはできず、その人にとっては重いのだということは理解していますが、弟を見る時、人が自分の力で一生を生きていけることの他に何の不足があるのだろう、何故バカな差別をするのだろう、何であれみんなが幸せになればいいではないかと思ってしまいます。知的障害者にしろ、身体障害者にしろ、毎日の生活に一生「誰かの手」が必要なことは、当人にとっても、家族にとっても本当に大変なことです。「生まれ」が何であろうとも、人が他の人にあまり迷惑をかけずに自分で生活でき、健康で幸せな一生が送れることが人生で一番基本的な、重要なことだと思います。(もちろんマイノリティの人はそういう権利が保障されていないことに問題があるのですが。) 性的マイノリティの親子の問題も「受け入れ」さえすれば、「手をとられることもなく」お互い楽しく会話をすることも、楽しく一緒に活動することもできるのです。人を変えようとすることは大変ですが、自分の考え方、生き方を変えることによってまわりを変えることはできます。楽になることもあります。遅すぎるということはありません。これは私が自分自身に言い聞かせていることでもあります。子どものために、「マイノリティ」のためにできることからやってみましょう。そんなみんなの力が一緒になると大きい力になっていくことを信じて。 (2006年7月15日 LGBTの家族と友人をつなぐ会のための記事) |
大学のハンマー投げ選手、 Keelin Godsay 『100% Women』のスクリプトをもらい、翻訳をすすめるにつれ て、地元(メイン州ルイストン市)の新聞の第一面で紹介されたトラン
スジェンダー(FtM)の、キーリン・ゴッドセイ(Keelin Godsey)のことが何度か頭の中を横切った。彼は私が勤めているベイツ
大学の英語(文学)専攻の生徒で全米でもトップに入る陸上(ハンマー 投げ)の選手らしい。キャンパスで彼を見かけたことはあるが、話した
ことはない。彼は競技には女性、ケリー・ゴッドセイとして参加し数々 の優秀な成績を修め、2008年のオリンピックを目指している。その
ため、ホルモン治療などは受けていないそうだが、将来はSRS (sexual reassignment surgery)をするつもりだと言っている。ちなみに、IOCはTGの選手がSRSを受けてから2年以上たっている
場合はその移行した性別での参加を認めている。彼は2006年5月ベ イツ大学を卒業、その後大学院に進み、男性としてフィジカル・セラピ
ストになりたいと考えている。カミングアウトに関しては、多くの友人 を失ったそうで、家族親戚は受け入れてくれたものの、多くは彼のセク
シュアリティを話題にすることは全くないそうである。(参考:Sun Journal 2006年2月5日) |
私とホモフォビア 大阪に留学しているアメリカ人の女子大生が、日本人に「今、デートしている人がいますか」と聞かれ「彼女がいます」と答えたとき、「あなたの日本語は間違っていますよ」と言われたという話を聞いた。その日本人に悪気はなかったのかもしれないが、正に「無知は偏見をよぶ」と言える感じがした。 |