更新(アメリカ東部時間):2006年12月1日17時(日本時間は+14時間)

*ご意見は大藤恵子<kofuji@bates.edu> 宛お送り下さい。日本語可です。
*私が見た「セクシュアルマイノリティ」を含む映画の紹介
*「セクシュアルマイノリティ」に関する最近のアメリカを中心としたニュース

*レポート&エッセイ

「World AIDES Day (世界エイズデー)」

今日はベイツ大学のクワド(広場)には、木と木の間を紐で結び、エイズで苦しんだり、亡くあるなったりした子どもの写真が百枚ぐらい学生の手によって、下げてありました。学生の中には赤いリボンをつけて来た学生もいました。大学内で流されたニュースによると、世界の120万人の一番貧しくて病気にかかっている人々が「一人のアメリカ人」によって命を助けられたと言います。ニューハンプシャー州の人口と同じぐらいの「一人のアメリカ人」が上院や下院に手紙を書いたり、電話をしたりして(つまり献金して)エイズ患者などを助けたことになるのだそうです。(参考:PEPFAR) このように「社会問題」に関しての個人の支持、陳情、投書などもアメリカでは盛んです。スポーツ選手(やその団体)や俳優、歌手などの有名人の中にも積極的に社会運動を支持する人もいます。私たち一人一人が何かすれば、それが社会を変える大きな力となっていくのです。日本政府や県や市の政策などにも、意見が言えるときは、どんどん声をあげていきましょう。そういう人が増えれば、社会がよくなっていくと信じて・・・。

アメリカという国では多くの学校や団体が個人や企業、団体の献金によって支えられています。献金をすると減税の対象にもなり、税金にも目を光らせる(注:共和党が支持される一つの理由は、「税金を下げる」政策をするからというのがあります。)アメリカ人の心情をついた方法、あるいは富めるものが貧しいものを助けるというキリスト教の精神でもあると思います。税金と言えば、日本の消費税には、困ったものだと思います。アメリカの消費税はどの州でも、「基本となる食品(パン、魚、肉、野菜、果物等)」にはかかっていません。それは、貧しい人たちが最低毎日健康な食べ物が安く食べられるようにという配慮からです。日本にはこういう配慮さえないからです。

The Global Fund to Fight AIDSという機関では、世界中からの献金によって、2006年11月までに、77万人のエイズとHIV陽性の人を援助し、940万人の人をテストしたりカウンセリングしたりし、110万人の浮浪児を助け手当てすることができ、200万人の人を結核などから助けることができたそうです。

[2006年12月1日]

「ナショナル・カミングアウト・デー」
10月11日はナショナル・カミングアウト・デー、その週はナショナル・カミングアウト・ウィークなので、今年もベイツ大学でいくつかのイベントがありました。まず「アウトフロント」というGSAの(性的マイノリティとマジョリティが一緒に活動する)クラブのメンバーによって、例年のごとくキャンパスの広場の通り道にチョークでメッセージが書いてありました。そこには「クローセットは衣類用だ」とか「自分はストレート(異性愛者)だが、狭い心は持ってない」、「ゲイやレズビアンは10%もいることを知ってる?」、「自分の周りにはゲイやレズビアンがいないなんて思わないで」、「セクシュアリティがどうあろうとも愛は愛である」、「男性がゲイ男性を憎む本当の理由は、自分たちがジェンダーにおいて支配者の立場であることが間違いであることを分かっている恐れからである」などイラストとともに色々書かれていました。 (*表現は大体毎年同じなので、これは前のを転用。)

今年はアメリカ・インディアン(Yupik 族)のゲイ男性、リチャード・ラフォーチュン氏が招かれ、講演があったので聞きに行きました。アメリカ・インディアンの言葉には「同性愛」という言葉はなく、同性愛者は「二つのスピリット」を持っているとして人々の間で尊敬されていたそうです。勇ましい女性が狩りに出、やさしい男性が家にいても、それを「女なのに・・・」「男なのに・・・」「男みたいだ」「女みたいだ」と言われて揶揄されることもなかったそうです。それが変ってきたのは、やはり白人の文化習慣が、彼らのコミュニティに入ってきたからです。これを聞いた時、江戸時代にある程度容認されていた衆道が明治時代に入って、キリスト教を含む欧米文化が紹介されたことによって消えていった経緯を思い出させられました。ラフォーチュン氏は、こうしたいいインディアンの伝統を取り戻そうと、ミネソタ州のインディアン・ゲイ・コミュニティで「二つのスピリット」という運動を20年続けているそうです。
 

==========続き===========
この講演を聞きに来ていたチャールズ(レトリック教授)とバルザザー(スペイン語・文学教授、元はスペイン人)というゲイ・カップル(40〜50歳ぐらい)に会ってびっくり。何と生まれて何ヶ月という赤ちゃんを連れているではありませんか。多くのゲイ&レズビアンカップルのように、彼らも養子をもらったらしく「息子を紹介するよ。この子のおかげで忙しいんだ」と嬉しそうでした。一般的にアメリカ人は、日本ほど、「跡継ぎ」に固執するわけではないので、養子を育てることに、こだわりがありません。自分たちもハッピー、不運な子どもがいい親に恵まれると子どももハッピーだと考えています。私の近所に住んでいるローズというおばあさんは、看護婦さんをしていました(亡くなった夫はベイツの職員)が、子ども二人がいるのに、まだ余裕があるからかわいそうな子どもを助けてあげようと、養子をもらって育てました。その息子は、外で見ているとまったく実子と変りません。今は孫二人(一人は養女)をよく連れて来ています。アメリカでは(特に白人の)養子は順番待ちらしく、外国から養子をもらうほうが速いので、マドンナのような養子事件がニュースになるのです。

また、アウトフロントのメンバーで二年前卒業したライアンという元学生のパートナーとその友人が一緒に「ホモトピア」(ホモセクシュアル+ユートピア)という短編映画を作り、それを大学で見せてくれました。ベイツ大学だけではなく、東北部のいろいろな学校やコミュニティで見せているのだそうです。お金は取らず、献金を募っていました。

また今年も一人のメンバーを中心に、カミングアウトにまつわる話、詩、歌などが学内で募集され、『ボイス(声)#2』という冊子が発行されました。その中からカミングアウトについての話を二つ紹介しましょう。

アリソン(05年卒業)の話:
 私がカミングアウトすると、人々は信じられないようです。母の「あなた、確かなの?」に始まって、「あなたがそう言うんならそうでしょう。」「うそっ!」「はあ? そんなこと一度も考えたことなかったわ」などと、度合いは違っても、みんな一様に驚きます。私は多分異性愛者に見えるのでしょうし、私自身9ヶ月前まで異性愛者だと思っていました。
 去年の一月、一人の友人とセクシュアリティについて話していた時、「あなたのセクシュアリティは?」と予期しないことを聞かれました。そして私は「私はストレートだと思うけど・・・」と答えました。そうです、「けど・・・」だったんです。で、私は自分が言ったことが信じられず、また自分にも友だちにも説明が必要でした。そして、「そう、私は感情的に、ロマンチックに、性的に同性に魅かれるわ」と自分の口から言葉として出るまで、自覚がありませんでした。
だから、他の人たちが「信じられない」と言っても、悩んだりすることはありません。自分自身そうなのですから。でも、もしこれが自然なら、私は私自身について他にまだ何を知らないのだろうという疑問がわいてきました。私はクイアであることを選んだのだろうか。それは正しい自己決定なんだろうか。レズビアンであることはフェミニストにとっていいことだろうか、悪いことになるんだろうか。私はレズビアンなんだろうか、バイセクシュアルなんだろうか。私はただ自分でそう思っているだけだろうか。
  でも普段は私はこれらの疑問をほとんど考えません。自分は何者でどうしてこうなったのだろうかといつも考えることは、人生を難しくします。だから私は自分の人生を平穏にするように生きています。


セラの日記(06年卒業):
[2002年5月コスタリカで。]
ベッドに横たわり、こおろぎの声を聞いている時、複雑な感情が私の中を行き来する。何もはっきりとまとまった考えがない。何を考え何を感じているかそれさえもはっきりわからないのだ。「私はそう?」「何かとは何?」「何でもとは何?」「何が起こるのか?」「もしかしたら私はこれら全部の表面的なものにあがいているのだろうか。そうとしたら、いつ終るのだろうか。」「私は何?」私はそのために今の人生をとって変られるのはいやだ。でも、これらの感情の答えや理由をみつけられないまま、すすむのもいやだ。これらを忘れることが最良だと思うけど、一方でこういう考えや感情を抑えることは不可能だし、健康ではないと思う。

[2002年10月メイン州ルイストンで。]
ベイツ大学に来て一か月になる。同性愛者であることを公表している人たちや、それに関連した問題に関わることによって、より一層自分の性指向に対して質問するようになっている。でも、そう考えることは最近になってからで、まだ驚きである。彼女に会うまではまだ自分がゲイかもしれないということははっきり考えていたわけではない。

[2002年11月]

私は昨夜カムアウトしたのだろうか。いや、そうではない。私は"Questioning"(注:クエスチョニングというのは、自分のセクシュアリティをはっきり断定していない状態のこと)だと言ったのだ。でも、それは大きな一歩だった。私は本当に知っているのだろうか。受け入れたくない、まだ知りたくないのだろうか。そうは思わない。多分100パーセント完全に確かだと感じるのを待っているのだ。いらいらすることは、それを知りたいことだ。私は同性愛者かどうか確かめるためのテストか何かあるといいなと思う。そうしたら、そのテストを受けるのに。一方で、私はそれを示すような、一般的なことを知っていた。でも、いろいろなことを確信するには、時間がいるのだと思う。

[2002年12月]
最近私は宿題や毎日の生活の中の他のことが手につかないくらい
この問題に悩まされている。日に日に、自分が同性愛者だと思うようになっている。少し疑いも残っているが、事実だとは思われない。自分は同性愛者だ。それを過去の2週間自分自身に何度も言い聞かせている。『あなたはゲイなのです。自分自身に、あなたがゲイ(同性愛者)ではないという、あるいはあなた自身が自分に植え付けた種を検証する証拠を示しなさい。でも、それを思いつくことはできません。そこにはあなたがゲイではないという証拠はありません。』

[2003年1月16日]
私はまだ隠れている。外に出たい。ゲイであることをみんなに打ち明けたい。でも、何かそうさせないものがある。でも、何なのだろうか。私は心の準備ができていると思う。

[2003年1月20日]
私はカムアウトした。それについて本当に多くのことを考えて生き、少し超現実的であった頭で追体験し、実際にそれをなし遂げた。

[2003年2月]
私は今まで7人の人にカムアウトしている。私にはまるでそれしか私の頭の中になかったように感じられる。私は信用できること、そして性指向は恥ずべきものでも何でもないことを人々に示し、開放的で正直であろうとした。(私はセラと話したこともあり知っているのですが、彼女は実際そういう生き方をし、学内でいろいろ活躍しています。)一番大切なことは、私が自分を隠すことなく、自分でいられることに快適であるということだ。人は普通異性愛者だとみられるけど、私は人々にゲイであると直接言うという内にあるプレッシャーを感じた。私はただ私でありたいだけなのに。

[2003年7月]
2年前を振り返ってみる時、今の自分がずいぶん遠くまで来たことは驚きだ。コスタリカで自分の性指向について考え始めた。ベイツに来てからは、自分自身に真面目に問をした。02年12月に自分自身にカムアウトした。03年1月大学で友人にカムアウトを始めた。4月に兄と両親に打ち明けた。そして今ワシントンDCのHRC(注:ヒューマン・ライト・キャンペーンは性的マイノリティの権利と平等をサポートするアメリカで一番大きい、また募金運動、政治運動も積極的にやっている団体機関)でインターンをしている。(*日本ではこういう研修ができる場所がほとんどないのが残念です。)

私のカミングアウトの過程は私個人の成長の明かしである。どういう風に成長したかを言うのは難しい。
カミングアウトして以来、私はもっと完璧な人間になったような気がする。もっと自分に自信がつき、人々との関係も、自分の意見や感情が自由に、オープンに出せて、前よりもずっとハッピーな気持ちで交われるようになった。私にからんでいたもやもやはなくなり、毎週何かすごいことが起こる。それは解放の過程であり、これからも私が成長すると共に、人々との関係を築き、私自身も含めて、人々の心を開き、目を覚まさせることを続けていこうと思っている。

ほかにベイツ大学のジェンダーに関する記事(アメリカレポート:ベイツ大学」)を書いていますので、興味のある方は、下の赤の枠内をお読み下さい。これは「季刊セクシュアリティ」という雑誌のために書いた記事のオリジナルです。


(2006年11月7日、 LGBTの家族と友人をつなぐ会のための記事)

アメリカレポート: ベイツ大学

■ 概観
ベイツ大学はアメリカ最北東部にあるメイン州ルイストン市に、個人の自由と人権を信じる人々によって1855年に創立されたニューイングランドでは最初の男女共学校で、学生は宗教、人種、性別、国籍を問われなかった。そのためかフラタニティ(男子)やソロリティ(女子)といった学生の社交場がないのも特徴である。現在学生数約1700人、教授の数は約200人(うちアフリカ系約7%)の私立のリベラルアートカレッジである。2004年の全米リベラルアートカレッッジ総合ランクでは170校中22位であった。リベラルアートカレッジというのは、修士、博士のコースはなく、大学院に進む前に学生がいい一般教育を受けられることが期待される大学群である。大きな大学では大学院生が学士の授業を教えることがあるが、リベラルアートカレッジでは教授が教え、一クラスの学生数が少ないこともあり(ベイツでは学生と先生の比率は10対1)、学生は厳しい学習を要求される。そのため5科目取るときは助言の教授の承認が必要で、普通一学期4科目を取る。セミナー以外同じ年度の学生が集まることはなく、4年生でも低い百レベルの授業が取れ、その逆もあり得る。普通1科目は一週間に計3時間で13週間、科学や言語ではラボも余分にある。学生は教科書の読破、授業の議論やプロジェクトの準備、リサーチとリポート書き、試験、卒論などに追われる上に、クラブ活動やボランティア、自分たちのソーシャル・ライフも維持しなくてはならない。学内でアルバイトをする学生も多い。卒業後すぐというわけでもないが、ベイツでは三分の二が大学院に進む。

施設はコンサートホール、演劇舞台ホール、スケートリンク、プールを含めたジム、テニスコートがあり、グランドもいくつかある。コンピュータ室もいくつかあり、込んで困るとか、壊れて使えないということはない。図書館には58万冊以上の書籍、朝日新聞も含め色々な新聞、「Gay & Lesbian Issues in Education」などのジャーナル類、千以上のビデオ、DVDやマイクロフォームなど多量の文献、資料が備わっている。多くの建物、施設などは成功した卒業生の寄付によるものが多い。

学生は東部を中心に全米から集まる。外国人留学生も100人ぐらい含まれる。全額あるいは部分的奨学金(返還不要)を受けて来る学生が三分の一より少なめ、ローンを組んで来る学生が三分の一、全額払って来る学生が三分の一より多め。大学は名声を上げるために、いろいろな面で力を発揮できる学生に奨学金を与える。入学は本人の学力だけでなく、スポーツ、芸術、創造性、活動経験、リーダーシップ、ボランティアなどが考慮され、推薦状、面接も大切な要素である。SATテストという全国的な試験の点数は考慮に入れるが、高得点は必須ではない。一般的に学生は高三の時に、自分が入りたいと思っている大学を両親と共に訪問し、決定の参考にする。余談だが、ベイツは前NHK政治論説者、故平沢和重氏が留学卒業した大学でもあり、氏を記念して会議室の一つが平沢ラウンジと命名され、平沢財団を通し毎年一人の日本人留学生を受け入れている。

学生の中にはラーニング・ディスアビリティー(学習障害)と言われる学生も混じっているが、個人の権利を守るため、ディーン・オブ・スチューデントのオフイス(学生課)は知っていても、その情報は前もって教授に告げられることはない。ただし、問題に気付けば教授のほうから聞くことはできる。学生の障害は暗記に時間がかかるとか、テストの問題を読むより耳で聞く方がいいとか、多様にわたり、学生が教授に言わない場合は対処も困難である。


■ システムにおけるジェンダー考察
ベイツでの男女学生の比率は約半々、少し女性の方が多い。ほとんど全員が寮(ビルだけでなく家もある)に住んでいる。寮はほとんど男女混合(階によって分けている寮もある)、喫煙、飲酒、パーティなどが許されない寮もある。ちなみに大学では全館禁煙なので、冬には喫煙者(非常に少ない)は零度以下の外でふるえながら喫煙している。車イス用の便宜はキャンパス中で考慮されている。同じニューイングランドのウェスリアン大学、ブラウン大学ではトランスジェンダーの学生をそのジェンダー・アイデンティティによって希望する部屋に入れるようにし始めた。トイレもユニセックスのトイレが作ってある。ベイツ大学はこれからだ。

ベイツの教授陣の割合は男性52%、女性48%である。理数系を例にあげると、生物学部では女性12人に男性6人、化学学部では女性7人に男性5人、数学学部では5人ずつである。こういった情況なので、学生、教授に限らず色々な長は女性が多い。学長は2002年度から女性。教授たちの要であるディーン・オブ・ファカルティ(教授長)や二人いる副教授長はこの15年間女性である。学生課の長、ディーン・オブ・スチューデントの一人も2年前まで女性だったが、その後4人全員男性になった。そのうち二人はアフリカ系である。大学にはアファーマティブ・アクション(AA、積極的差別撤廃措置)のオフイスもあり、その長は現在コロンビア人の女性だ。学部長、委員会の長も女性が多く、それは女性も男性も当然のこととして受け入れている。「男のメンツ」などというものは見られない。大体、学部長の職も名誉職というより、雑用係と認識している教授もいるほどである。

ベイツでは女性教授も男性と同等に発言、仕事ぶりを発揮するが、それでも、前任のハワード学長(男性)は一年に一度、私のような女性でありマイノリティでもある教授を集めて特に男性教授や男子学生などから差別や嫌がらせ、理不尽な甘えを受けることはないかとミーティングを設置して聞いてくれていた。彼自身の発案かどうかは定かでないが、男性の学長のこういった配慮は驚きであった。ちなみに彼は朝学生食堂に行って学生と一緒に朝食をとり、よく情報を得ていたらしい。私たち教授がどんな仕事をしているかもよく知っていた。最近は年度始めに新任の教授、スタッフを対象に嫌がらせやセクハラ問題のための研修会と、研修をする助言者のための研修会が行われている。これは合衆国及びメイン州の法律で実施を課せられているものだ。そういえば何年も前、スペイン語の教授が女子学生に触ったと言う理由で辞職したことがあった。それ以来、私も学生に触るのは気をつけている。

レイプ事件も二件記憶に新しい。二件とも女子学生が外部の男性に攻撃された。一昨年起こったレイプは夜人のいないトイレに行った女子学生が待ち受けていた男性にレイプされたもので、これは警察に報告され犯人は逮捕された。そのずっと前に起きた事件は、女子学生が安易に外部の男性を寮の自分の部屋に入れたということで、当時の女性ディーン・オブ・スチューデントが警察に訴えたいという学生を援助せず、逮捕には至らなかった。しかし新しい女性学長になってからこの女性ディーンは退職させられた。アメリカが日本と違う点は上が変わると「官僚」も変えられる可能性があり、それによって、対処の仕方が変わり得ることだ。

200人の教授のうち、ゲイ、レズビアンの教授は15人(7%)ぐらい含まれる。また私が知っているだけで3組のゲイ・カップルがいる。一組のアフリカ系の若いレズビアンカップルは子どもも一人育てている。一組のレズビアンカップルは一つのポジション(一年に合計5コースを教える)を二人で共有している(一人が二つか三つのコースを教える)が、保険などは個別に受けているようだ。遠距離結婚を避けるため夫婦で一つのポジションを共有する場合もある。ベイツでは、未婚のカップルも、ゲイ・カップルも、6ヶ月以上同居している、共同の銀行口座を持つ、などのドメスティック・パートナーの条件を満たせば、パートナーは医療、歯科、生命保険の受取人などの保障がもらえ、図書館やジムなどの施設が自由に使えるカードが支給され、パーティなどもカップルとして招待される。保険会社はドメスティック・パートナー用の簡素な申し込み用紙を用意しており、保証人が必要だがこれは大学の医療保険の事務係長などが簡単になれる。アメリカではドメスティック・パートナーの社会保障をする会社は2005年には500社に上ったが日本ではどうであろうか。(Advocate、2005年10月11日号、55〜60ページ)

■ジェンダー、セクシュアリティに関する活動やイベント
大学には女性学のラウンジがあり、学生のクラブもあり、毎週のミーティングやニュースレターの発行、催し物など活動が活発に行われている。冬には一年に一度イブ・エンスラー(Eve Ensler)著作の「バギナ・モノローグ (The Vagina Monologues)」というショーも学生によって行われる。これは女性に対する性的暴力を啓発するためニューヨークで2001年から始まった。去年発表されたエピソードの一つは、嫌なのに夫によって陰毛を削られる妻の叫びであった。専任のディレクターや助手(両方ともアフリカ系女性)がいる多様文化センターも、様々な講演などを企画活動している。12月1日の世界エイズデーの前には、市内の病院などと協力して募金のためのチョコレート販売を大学内で行う。

■アウトフロントの活動
 また「アウトフロント」というGSAの(性的マイノリティとマジョリティが一緒に活動する)クラブもある。私はこの二年間ほど彼らのミーティングやイベントに参加したのでそれを紹介したい。ミーティングは毎週夜行われ、議論やイベント、運動などの計画などが話し合われる。壁に色々な写真やポスターが貼られ、雑然とした部室もある。ミーティングに集まるメンバーは5〜60人ぐらいで、そこでは本名やセクシュアリティを言う必要はなく、参加者は話す内容が極秘であることも了解している。ベイツは年間百万円ほどの予算を施す。

10月11日はナショナル・カミングアウト・デーなので、その週メンバーはキャンパスの広場の通り道にチョークでメッセージを書く。そこには「クローセットは衣類用だ」とか「自分はストレート(異性愛者)だが、狭い心は持ってない」、「ゲイやレズビアンは10%もいることを知ってる?」、「自分の周りにはゲイやレズビアンがいないなんて思わないで」、「セクシュアリティがどうあろうとも愛は愛である」、「男性がゲイ男性を憎む本当の理由は、自分たちがジェンダーにおいて支配者の立場であることが間違いであることを分かっている恐れからである」など色々書かれている。

今年は二人のメンバーを中心に、カミングアウトにまつわる話、詩、歌、絵画などが学内で募集され、『ボイス(声)』という冊子が発行された。私も2000年に卒業したゲイの学生が私にカムアウトしたときのエピソードを書いた。余談だが、その原稿を出した後に、当人が私をたずねてきたのでびっくり。現在彼はモーガン・スタンレー(銀行信託会社)のロンドン社で働き、パートナーもいてハッピーとのことで、6年前の彼の情況を知っている私は涙ぐんでしまった。彼は「色々な経験から学んで大人になった」と言っていた。彼によるとモーガン・スタンレー社は同性パートナーの医療保障などをしてくれるそうである。

また、2003年11月にマサチューセッツ州の裁判所が同性婚を認めたとき、それは2006年に州議会で是非が問われることになっているため、アウトフロントのメンバーは州議会議員に同性婚に関して提言を書くことを決め、自分たちが書いただけでなく、学生センターの前で紙とペンを用意し、センターに来る学生に協力をつのり、議員にそれらを送った。ちなみにアメリカでは重要なことが起こったり、採決があると、上院下院議員、州議会の議員に自分の意見を書いて送ったり、イーメールをすることは普通に行われているようである。これは「選挙民はあなたの言動に目を光らせているのだ」と議員に認識させるのに有効だ。

またメイン州のポートランド市ではシビル・リユニオン(法的な同性婚)は認められているが、2005年11月8日には州で「同性愛者への偏見を認めない法律」の廃案の是非が住民投票されることになっていたため、メンバーの一部は有権者にロビングをしていた。それに合わせて、「家族を作るものは血縁でもなく、システムでもなく愛である(傍点は筆者加筆)」という題で写真展も行われた。写真はゲイ、レズビアン、トランスジェンダーの家族の写真で、それには当事者や家族、教師などのコメントが添えてあった。一般に、アメリカではボランティア精神で子どもがある人でも養子を育てるぐらいなので、カップルが養子を育てること自体は抵抗感がない。ゲイ、レズビアンのカップルは自分の子どもでなく、養子を育てている人も多い。大学の新聞には「同性愛差別は個人の権利を踏みにじることだから、この法案の廃案に反対しましょう」と二人の学生が意見を述べていたし、学内のあちこちにポスターも貼られていた。テレビ、市内ではNoと Yesの両方の宣伝、立て札があった。私は選挙権がないので、自宅の前に廃案に反対しようという立て札を立てた。この投票の結果は廃案反対が55%を占め、メイン州は法的に「同性愛者を差別しない」方向に進むことになった。つまり、これから色々な職場でドメスティック・パートナーの保障が増えたり、同性婚も議論に上るということだろう。

深い雪に覆われる冬には、ドラアグ・ショーも行われる。これにはアウトフロントのメンバーだけでなく、人気があるア・カペラの男性コーラス、女性コーラスのメンバーなどがそれぞれ女装、男装し協力する。歌あり、踊りあり、コミックありの楽しい催しで、300席の会場は床にすわる学生(大体女性三分の二、男性三分の一)もいるほどに埋まる。一人2ドルの入場料はエイズの団体に寄付される。

アウトフロントでは外部から講演者も招く。04年度は、ゲイであるという理由で1998年10月にワイオミング州で殺されたマシュー・シェパード(21歳)をよく知っているレズビアンの友人が招かれ、彼女はマシューについて話し、その後の運動についても話していた。マシューが殺された当時、ベイツでもキャンドル・サービスの集いがあり、ヘイトクライムとかゲイの権利についての声が高まった。04年度はまた、別のレズビアンのアクティビストも招待されて講演した。彼女はどういうことができるか運動の仕方を具体的に話していた。アメリカの学生はこういう多くのイベントを通してモデルを見、知ることができ、自分ができることを悟り、実践していけるのだなと実感できた。義務と責任と権利を習ったり、また、差別に対して法に訴えることができるというのは、大きな強みである。

学生だけでなく教授たちも自分の授業に関係ある色々な講演やイベントを計画する。資金援助が得られた場合は外部から招く。スペイン語・文学の教授がトランスセクシュアルのゲストを招待したこともあるし、私自身は昨秋日本人のゲイ、Q氏を招待し、教育学部の教授と提携して授業やベイツ・コミュニティで彼に話してもらったり、橋口監督の「ハッシュ」という映画を見せたりした。ベイツでは一週間に二つ、三つはこういった催しが控えている。

■ ジェンダーに関する専攻、プログラム、授業(コース)
日本ではいくつの大学に女性学及びジェンダー学が専攻できる学部が設置されているのであろうか? アメリカの多くの大学のように、ベイツには女性及びジェンダー学の専攻もあり、またその他の学部でもセクシュアリティを含んだジェンダーの授業がたくさん用意されている。それらは性的マイノリティとは何かという基本的議論ではなく、もっと専門的に例えば社会学では家族という情況を議論する上で女性、男性、ゲイ、レズビアンも含めて議論するとか、政治学では法の下で性的マイノリティがどう位置づけされているか、同性婚なども含めて議論される。

私自身も「人権教育」「日本の女性・男性」「家族」などを授業の中に取り入れ、学生と色々議論する。05年秋は4年生レベルの授業で戸籍制度、在日韓国・朝鮮人、マイノリティ、家族について勉強してから「ハッシュ」という映画を見せて議論した。アメリカでも最近の大学教育を受けている人以外はゲイとトランスジェンダーの違いを知らない人は多いだろうという。また性交の初体験、回数、性感染症を含む世界の国々の統計をレポート、発表してくれた学生もいる。性感染症について学生たちは親ではなく小中高校で男女一緒に性教育を受けたという。学生の中には、家族名がなく個人名であるというビルマ人の学生や母親が結婚前の姓を使っているという男子学生もいて、活発な議論ができた。日本に留学したことがある私の学生の多くは、一般に「日本の親は子どもに甘すぎる」「多くの日本人の若者は議論ができない、できても保守的」という印象をよく話してくれる。
 
次に女性、ジェンダー、セクシュアリティをテーマに取り入れた授業と数を示したい。

・女性&ジェンダー学部:「フェミニスト論と方式についてのセミナー」「セックス、愛、結婚」「セックスとセクシュアリティ」など、16コース。
・英米文学部:「フェミニズム」を始め、8コース。
・教育学部:「教育におけるジェンダー問題」と「反抑圧教育」の2コース。
・社会学部:「人種、ジェンダー、階級、社会」「ジェンダーと家族」など8コース。
・人類学部:「ジェンダー関係の比較展望」「セックスと欲望と文化」など3コース。
・心理学部:「若者の多様性(ジェンダーを含む)」「女性とジェンダーの心理学」「女性と文化と健康」「世界の流れ:性と政治と戦争」の4コース。
・政治学部:「女性とパワーと政治システム」「国家と家庭における民主主義」「法とジェンダーとセクシュアリティ」「ジェンダーと国家」など7コース。
・アフリカ系アメリカ人学部:「黒人のレズビアンとゲイ文学」を始め、3コース。
・演劇&レトリック学部:「声とジェンダー」「フィルムにおけるレズビアンとゲイのイメージ」など3コース。「おこげ」という日本映画も紹介している。
・美術と文化学部:「セクシュアリティの問題と可視文化の研究」「女性とジェンダーと可視文化」の2コース。

そのほかにも「女性たちの旅:まだ深い水(イスラム教徒の女性たち)」「哲学とフェミニズム」(宗教・哲学部)「女性と男性と労働の経済学」(経済学部)、「ギリシア神話とジェンダーの心理学」(中世学部)、「化学における女性たち」(化学学部)など24のコースがオファーされている。上記と合わせると全体で80コースになる。

[2005年、11月「季刊セクシュアリティ」のために書いたエッセイのオリジナル]

つぶやき
 今日は終戦記念日。小泉総理が靖国神社に参拝というニュースも載っていました。去年広島を訪れたドイツ人の友人が、広島には「どうして戦争になったか」「日本の軍部が何をしたか」が何も展示されてない。そこがドイツと違う・・・と批判していました。どんな問題でもそうですが、まず「知らないと」何も自分の意見は出てこないし、人の言うままになってしまいます。「知らせること」は必要かつ大切なことだと思います。LGBTQのことも、やさしくはないけれども、訴えていかなくては、多くの人は何も考えていないので、何も変りません。部落問題も部落の人の「語り」を聞くことで多くの人が差別は間違っていると気が付きました。ハーベイ・ミルク(最初のゲイのサンフランシスコ市会議員)も「カミングアウトしよう」と演説しています。
(2006年8月15日)
A君のカミングアウト
  今回はA君のカミングアウトの話をしましょう。2000年の冬のある日、A君が私のオフィスを訪ねてきて、「お願いがある」と言うので、何か聞いてみたら「自分は今からアルバイトしなくてはいけない事情ができたから、先生の授業を時々休むかもしれない。でもちゃんと終わりたいから補講をしてもらえないか」というものでした。「どうして急にアルバイトしなくてはいけないの?」と私。A君はその時4年生で、学習の要求が厳しいベイツではほとんど考えられない3つの専攻(中国語、アジア学、政治学)をして卒業しようとしていました。そのためには3つの卒論を書かなくてはならず、余分な時間がないことはわかっていました。彼は語学の才能があって、母国語、英語、中国語、イタリア語、日本語(初級)など6〜7か国語ができました。
 「いや、実はゲイであることが両親にわかって、お金がもらえないことになった」と彼。彼によると、父親は「卒業してからギリシアに戻って来ないなら、援助を切る」と言ったそうです。A君は“どうも息子の態度が変だと思った“母親の誘導質問にひっかかってカムアウトするはめになり、父親は母親を通して知ったそうです。A君は、ゲイであるためにどんな目に会うかわからない兵役が待っているギリシアに卒業後帰るつもりはなく、親の意見に従うことはできませんでした。母親は「自分の育てかたが悪かった」と泣き、父親は「事業の跡継ぎがなくなった」と嘆き、「帰って軍隊に入れば、同性愛が治る」と言ったらしく、A君が「これは親のせいではなく、治らない自然なことだ」と言っても聞いてもらえなかったそうです。それ以後父親とは電話でも話さず、それでも母親は時々電話してくると言っていました。A君には兄がいたのですが、この兄は親の言うことを聞かずしたい放題だったので、両親は「まじめでいい子」のA君を可愛がり、望みをかけていたので、余計ショックだったらしいです。そのことも彼は心配して、親にカムアウトできずにいたようでした。
 それから彼は大学のカフェテリアの下働きをするようになり、私の授業を時々休むようになりましたが、補講もさぼっていました。その時彼は他の悩みも抱えていたようでした。というのは、ベイツ大学でA君には一歳年下の相手がいましたが、その相手はドラッグに溺れ度々問題を起こして、A君の手に負えない状態になっていました。(後年、性的マイノリティについて多くの本を読んだ時、特に彼らがドラッグの問題を起こさざるを得ない状況を知りました。そのことは、小中高時代にマイノリティを含めた性教育とジェンダーや人間関係、将来についての教育の大切さと意義を私に強く植え付けました。)その後A君はあきらめて彼氏と別れたようでした。
 学期の終わり(2000年4月半ば)に私はA君にCの成績をあげました。努力をする学生にはいい成績をあげるので、私が学生にあげる成績としては悪い成績です。A君は私が「事情を理解してくれた」と思っていたのでこの成績にがっかりしました。しかし、教師の本命は学生の事情を理解し、勉強を続けられるように助けることであり、決して、補講を休み、勉強しない学生にいい成績をあげることではありません。(後でA君はこの時いろいろ学んで自分は成長したと言ってくれました。)
  A君は理解してくれましたが、このことは「受け入れる」ということのマイノリティとマジョリティの接点あるいはボーダー(境界)が、人によっては違うのだということが存在することを明らかにしてくれました。直接的、あるいは間接的にはマイノリティであることが原因だと思いますが、そのことだけを持ち出すと解決できない個人的な問題もあり、一人の人間として努力しなくては自分の豊かな人間性や才能を築くことはできないのではないか・・・ということ。そうすることで人に認めてもらうことは可能、容易なこと。このことは、TGのいつきさんが「子どもに、あるがままの自分でいいと言うのは、疑問だ。努力しなくてもいいということと誤解されるのではないか、そこには成長がなくなるのでは・・・?、子どもにはやっぱり具体的に言わなくては・・・」というようなことを言われたこと(2005年初夏京都で)と通じているところがあると思います。
 A君はアメリカで仕事を探していて、その冬仕事が内定していましたが、その後断られたそうで、彼自身は「ゲイであることがわかったからではないか」と言っていました。私は例年のごとく、ベイツ大学で冬学期が終わる時点(4月下旬)で日本に一時帰国することにしていましたので、友人がいることはわかっていましたが、A君の卒業式(5月末)が孤独なものにならないかとても心配していました。ベイツの卒業式は親、親戚、友人が多数参加しとてもにぎやかになります。A君の両親が来ないのではないかと心配だった私は、仲良しの同僚に「親代わり」を頼もうかと思ったぐらいでした。でも結局何もすることはなく気にしながら一時帰国、6月初めアメリカに帰ってきました。
 するとすぐその後のベイツ同窓会の週末、A君が同じ私の授業をとっていた仲良しのロジャーという台湾人の学生と一緒に大学に来て、私の家を訪ねてくれました。そして卒業式に両親が来てくれたこと、ボストンで仕事が見つかり働き始めたことを報告してくれました。私は本当にホッとしました。
 去年(2005年)10月のナショナル・カミングアウト・デーに、ベイツで私もよく知っているセラというレズビアンの生徒が「カミングアウト・ストーリー」という冊子を編纂しました。私はそれに「Aの想い出」というエッセイを書いて提出したのですが、あろうことかその次の日に、アレックスが突然私のオフィスをノックしました。夕方だったのですが、私は帰らずにオフィスにいたことを感謝しました。アレックスは今Mという会社のロンドン支局に勤めているそうで、作家であるパートナーもいて幸せな生活を送っているというので、感極まって思わず涙がポロポロこぼれました。私がベイツのアウトフロントというゲイ・サポート・グループにも顔を出したり、性的マイノリティのことを学習、研究したりしていることを話し、彼がいた時今知っていることを知っていればもっと何かできたかもしれない・・・と言うと、彼は今幸せだということ、ベイツにいる時いろいろ経験して自分は大人になったと繰り返しました。
  両親との関係を聞くと、母親はたまにロンドンに来て一緒にご飯を食べるそうで、パートナーにも会ってくれたけど、会話ははずまなかったようで、父親とはあまり話していないようでした。ゲイのことは話題に上らないそうです。私は「最近はいい映画もたくさんあるから、ご両親がそういうのを見てくれるといいね」と言いました。(しかしギリシアでは、例えば「アレクサンダー」はバイセクシュアルを扱っているので上映禁止になったという現実があります。)そして別れたのですが、その後クリスマスカード(新年のカード)が届きました。
 現実には、私はアレックスの話を聞いて激励してあげることぐらいしかできなかったのですが、彼にとってはそれだけでもよかったのかもしれないと思うこのごろです。知識があれば、対応ももっとよくできるかもしれませんが、親や周りがまず必要なことは「理解すること」ではなく、「あるがままを受け入れる」ことですから。アレックスは将来日本や中国に仕事で行くことがあるかもしれないと言っていましたので、今度は東京、香港、上海、あるいは台北から連絡があるかも・・・と時々想像しています。
(2006年6月27日、7月28日変更 LGBTの家族と友人をつなぐ会のための記事)
ひとりの人間としてどう生きるか
 私はアメリカのメイン州にある、東北部で最初の男女共学校として1855年に創立されたベイツ大学というリベラルアーツカレッジで15年間教えています。アメリカには1982年から住んでいて、ゲイの男性にも何人か会ったことがあり(そうです、知り合った人から「自分はゲイだ」と簡単に?言われたのです)、大学では同僚にもゲイ、レズビアンの個人やカップル(教員200人のうち私が知っているだけでも15人ぐらい、カップルは3組ぐらい)がいるのです。しかし、私は何年か前までは、例えば「ホモフォビア」という言葉を聞いても意味がわかっていませんでした。これは自分自身の頭の中では性的マイノリティを意識していなかったからで、自分の生徒の中にゲイがいるとは考えたこともありませんでした。自分では知的障害の弟のこと、部落差別と同和教育の経験から、同性愛差別をしているとは思っていませんでした。(同和学習のとき、何もしないことは差別を助長することにつながると何度か聞いたにもかかわらずです。)そんな私が意識をし始めたのは、ケビンという日系の教育学部の同僚との縁と、自分の学生(ギリシア人の留学生)にゲイであることをカムアウトされてからです。
 ケビンは2000〜2001年度だと思うのですが、学内で三度ゲスト・スピーカーを招きました。トピックが「マイノリティの人権」だったので、全部聞きに行ったのですが、その三回目がナカタニさんという日系アメリカ人のカップルで、これも私が同性愛に対して意識を持つようになるきっかけになりました。
 ナカタニさんには息子さんが三人いましたが、まず二男が20歳ぐらいで事件に巻き込まれ銃で射殺され、次に長男がエイズで亡くなり、その後三男もエイズで亡くなりました。長男がエイズで死ぬことを知ったとき、ナカタニさんは自分が息子たちに「男らしくあれ」「勇ましい日本男児」と教育したことが、長男が自分の性指向について親と話せず不幸な死(親と打ち解けずに亡くなった、親らしいことをしてやれなかったという意味)に至ったのだろうと後悔しました。長男の死と共に、三男のガイ Guy が性指向とエイズを明らかにしたため、ナカタニさん夫妻はガイには安らかな死を迎えてほしいとサポートしました。ガイにも親の気持ちがわかり、一緒に活動を始めました。健康が許す限り全米の高校をまわり「エイズについて」講演をしたのです。ガイの活動はビデオに収められ、ガイの死後は夫妻で講演をしています。(サイト参照
 また、ガイのストーリーと家族友人の活動は本、”Honor Thy Children ”(Molly Fumia著)に収められ、出版されています。この本は涙なしには読めませんでした。特にガイが2人の男性にバーの倉庫かどこかで成り行きでセックスされる場面では、著者のモリーは「ガイ、これはレイプだよ、わからなかったの?」と会話しています。ゲイの大人の中にも子ども(小中高生)を食い物にする人(predator) はいるのですから、「安全なセックス」教育や「人間関係の構築」教育は、同性愛も含めてこうした子どもを食い物にする現実があることを子どもに話していくことが必要ではないかと感じました。また、それが犯罪であり、どんな結果があり得るか知れば、それは「食い者」になる予備軍を防ぐことにもなると思います。もちろん子どもと話すためには、両親も教師もまず自分が知識を得ることが必要なのは言うまでもありません。
 その後、ケビンは他の仕事を見つけたのでベイツ大学を辞めたのですが、JGLIEという新しい教育雑誌の出版に関わっていたので、私にその翻訳の仕事を申し出てくれました。それから私はたくさん性的マイノリティ関係の英語、日本語の本を読んだり、映画を見たりするようになりました。尾辻さんなど日本の活動家と知り合いにもなれました。私は「変われないこと」に偏見を持ったり、機会を与えなかったり、差別をすることは間違っているし、社会をよくするには教育が大事と考えています。そして自分にできることを何か少しでもしていきたいと思っています。
 最後に、私には知的障害の弟がいるのですが、ちょっとその話を聞いてください。彼は生まれてから5歳まで歩けず、その後遅れてすぐ近くの小学校に6年間通い、その後は児童施設、知的障害者の施設で生活しています。最近はそんなことはありませんが、私が日本にいるころは、一時帰宅して施設に帰る日が来ると、必ず腹痛を起こしました。私が子どもの頃は、母は病院巡りで留守のことも多く、また弟が成長するにしたがって私は「恥ずかしい」と思ったものでした。それでも村の同級生の中には遊ぶ時に弟を入れようとしてくれる女の子がいて、今はそのことを思い出して感謝しています。母は恥ずかしいと思うこともなく、先生と話し、参観日も運動会も遠足も弟と一緒に参加しました。人中にも連れて出ていました。そういう母を見ているので、私は隠すこともなかったし、大人になってからは恥ずかしいという気持ちもなくなったのですが、弟の話し相手になるのはとても大変です。12年前母が亡くなり、今は父が母の代わりをするようになりました。もちろん老年の父に行き届いた世話はできないし、母には劣りますが、弟の話し相手になれる忍耐力には脱帽です。父(母)は帰ってくれば弟の「好きな物」を食べさせるのですが、私は弟にとって「健康な物」を用意します。どちらも愛情からですが違いがあります。父は「娘に後を継がせて気楽な老後」を口にすることなく期待していましたが、私は独身で異国暮らし、弟は障害者なので、老齢の一人暮らしです。弟のために長生きしなくては・・とがんばっています。直接口には出さないけど、今は私の「苦労して開いた生き方」を誇りに思ってくれていると思います。そして私は反対しながらも結局は私のしたいようにさせてくれたことに感謝しています。そんな父が一度「おまえが男だったらいいのに」と言ったことがありました。これは日本の男性優位社会を如実に表していると思いました。結婚している妹がいますが、多分父は「跡継ぎ」はあまり期待していないでしょう。日本の家族の形態も大きく変ってきています。アメリカに住んで日本の家族との「あり方の違い」を強く感じますが、それはまた別の機会に話すことにしましょう。
 人の悩みはそれぞれで、どれが重い、軽いと言うことはできず、その人にとっては重いのだということは理解していますが、弟を見る時、人が自分の力で一生を生きていけることの他に何の不足があるのだろう、何故バカな差別をするのだろう、何であれみんなが幸せになればいいではないかと思ってしまいます。知的障害者にしろ、身体障害者にしろ、毎日の生活に一生「誰かの手」が必要なことは、当人にとっても、家族にとっても本当に大変なことです。「生まれ」が何であろうとも、人が他の人にあまり迷惑をかけずに自分で生活でき、健康で幸せな一生が送れることが人生で一番基本的な、重要なことだと思います。(もちろんマイノリティの人はそういう権利が保障されていないことに問題があるのですが。)
  性的マイノリティの親子の問題も「受け入れ」さえすれば、「手をとられることもなく」お互い楽しく会話をすることも、楽しく一緒に活動することもできるのです。人を変えようとすることは大変ですが、自分の考え方、生き方を変えることによってまわりを変えることはできます。楽になることもあります。遅すぎるということはありません。これは私が自分自身に言い聞かせていることでもあります。子どものために、「マイノリティ」のためにできることからやってみましょう。そんなみんなの力が一緒になると大きい力になっていくことを信じて。
(2006年7月15日 LGBTの家族と友人をつなぐ会のための記事)

大学のハンマー投げ選手、 Keelin Godsay

『100% Women』のスクリプトをもらい、翻訳をすすめるにつれ て、地元(メイン州ルイストン市)の新聞の第一面で紹介されたトラン スジェンダー(FtM)の、キーリン・ゴッドセイ(Keelin Godsey)のことが何度か頭の中を横切った。彼は私が勤めているベイツ 大学の英語(文学)専攻の生徒で全米でもトップに入る陸上(ハンマー 投げ)の選手らしい。キャンパスで彼を見かけたことはあるが、話した ことはない。彼は競技には女性、ケリー・ゴッドセイとして参加し数々 の優秀な成績を修め、2008年のオリンピックを目指している。その ため、ホルモン治療などは受けていないそうだが、将来はSRS (sexual reassignment surgery)をするつもりだと言っている。ちなみに、IOCはTGの選手がSRSを受けてから2年以上たっている 場合はその移行した性別での参加を認めている。彼は2006年5月ベ イツ大学を卒業、その後大学院に進み、男性としてフィジカル・セラピ ストになりたいと考えている。カミングアウトに関しては、多くの友人 を失ったそうで、家族親戚は受け入れてくれたものの、多くは彼のセク シュアリティを話題にすることは全くないそうである。(参考:Sun Journal 2006年2月5日)
 アメリカに住んでいると(というか多分特に大学というコミュニティ では)、このように多くのセクシュアル・マイノリティの人々が「見え る存在」であり、私の周りでは人々がごく自然に受け入れていることを 感じる。また、私の以前の同僚でレズビアンのレスリーと彼女のパート ナーは、同性愛差別とマシュー事件のため、ユタ州とワイオミング州に は足を踏み入れないと言っていた。このようなセクシュアルマイノリ ティ自身の行動が、まず、アメリカで「アドボケイト」のようなポルノ でないゲイ雑誌が売れ、ヒューマン・ライツ・キャンペーン(HRC) など多くの大きいゲイサポート団体で献金を集め独立採算ができ、いくつかの出版社が多くのセクシュアルマイノリティに関する書物を出版で きる大きな力やサポートになっているのではないかと感じる。
 そういった意味では、関西クイア映画祭は、閉鎖的な日本社会に性的マイノリティの存在や人権を肯定的に訴えていくための大きな力になる だけではなく、色々な性的マイノリティあるいはマジョリティであるメンバーが、対等に話し合い協調して活動しているというところがすばら しいと思う。そういう活動のお手伝いが少しでもできると嬉しい。
[ 2006年6月24日 関西クイア映画祭(7/21〜25 大阪ヘップホール)のための記事)]

私とホモフォビア

 大阪に留学しているアメリカ人の女子大生が、日本人に「今、デートしている人がいますか」と聞かれ「彼女がいます」と答えたとき、「あなたの日本語は間違っていますよ」と言われたという話を聞いた。その日本人に悪気はなかったのかもしれないが、正に「無知は偏見をよぶ」と言える感じがした。
 しかし同性愛者の可視化が顕著であるアメリカに住んでいる私自身さえ、何年か前ならそういうことを言わなかったとは言い切れないものがある。なぜなら、私の生徒の中に同性愛者がいるということは念頭になかったからである。しかしながら、実際に同性愛者は3〜10%いると言われている。だからまず、世の中には異性愛者ばかりではないという意識をみんなが持たなくてはいけないと思う。そのためには何が必要か。学習である。私自身、本を読み、映画を見、研修会に参加し、同性愛者の語りを聞き、学習してきた。そういうことでみんなの偏見が完全になくなるという保障があるわけではないけれども、多くの人が変われると私は信じている。同性愛者を受け入れ、彼らの権利をサポートするようになれると信じている。ここでひとつ重要なことは、同性愛者のことを完全に理解するのは不可能であるし、同性愛者はそういうことを望んでいるわけでもないこと。「多様性を受け入れるのだ」という考えが大切である。
 みんなが同性愛や性的マイノリティについて学習し、「私には彼女がいます」「僕には彼氏がいます」と言えたり、「ああ、そう。いいねえ。どんな人?」などと、会話が前にすすむような受け答えができたりする日が一日も早く来なくてはいけないと思う。そういうことに頑張っているこのキャンペーンを少しでも支えてあげられれば嬉しい。(2006年4月27日 Act Against Homophobia のサポート記事)